戦後復帰80年沖縄戦について考える、命どぅ宝なんくるないさの深い意味

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平和の反対は何でしょうか?戦争?違います。それは無関心です。戦争の反対も無関心です。なんだか心がズキっとしますね。この機会に今ある幸せについて考え、関心を持ちましょう。

ぬちどぅ宝+なんくるないさ

この言葉は2つの沖縄の大切な考え方が合わさったものです。

①命どぅ宝(命は宝)

沖縄戦の体験や過去の歴史を背景に「生きているだけで素晴らしい」という命に対する強い尊厳を表す言葉。命が一番大切。何があっても、まず「生きていれば大丈夫」という信念を感じます。

②なんくるないさ(なんとかなるさ)

よく誤解されますが、「なんとかなるよ」と投げやりに聞こえるけれど、本来は誠実に正しい心で努力し、時を待てば必ず道はひらけるという意味です。

※元の表現は「まくとうーそーけーなんくるないさ」(正しいことをしていれば、きっとなんとかなる)

沖縄の方言で耳にしたことがあるかとも思いますが、本来の意味は「命があればなんくるないさ」です。「なんとかなるさ」=「気楽にいこう」という軽いニュアンスで使われることも多いですが、そんな楽観的な意味だけで終われない程、深くて温かい人生観を表す言葉です。壮絶な沖縄戦を体験したご先祖様が残してくれた大切なウチナーグチです。

戦後復帰80年、教育の現場では

6月23日は慰霊の日です。沖縄戦が終結し80年が経過しました。今では当時の様子を語れる人がほとんど残っていません。戦争があったことは知っていても、内容を知らない人が数多くいます。沖縄県民は積極的な沖縄戦の継承を願っています。

戦争体験者の当時10代の人が今は90代になっています。当時の事を語れる人もわずかとなってしまいました。継承する大切さを改めて感じます。県民を総動員して多くの死者を出した沖縄戦。核家族化が進む中では、平和教育は家庭から教育現場へと移ってきています。県民の期待は教育の中でやってほしいが圧倒的です。しかし、小中高の学校でも、平和の専門の先生がいないことも課題です。6月を平和月間とし行事化してしまう。特定の人が担当しマンネリ化している担当者任せの教育現場。実際には業務に日々追われる中で担当者任せになるのも無理はありません。

単に戦争は怖いものとして残さないように、発達段階、年齢に応じた伝え方が大切です。過去の出来事として残さないようにしなくてはいけません。絵本「へいわってすてきだね」はメッセージ性の強いストーリーになっています。外部講師などに頼らない指導のためにも、自分自身が勉強することが必要になっています。

沖縄戦の実態

沖縄戦で日本軍がとった戦術は出血作戦であり、主に次のような考えに基づいていました。

目的 米軍にできる限り大きな損害(出血)を与えることでアメリカ本土上陸作戦への意欲をそぎ、講和(和平)の条件を有利にしようとした。沖縄を「捨て石」として、時間稼ぎをし、本土決戦の準備時間を稼ぐ意図も含まれていました。

背景 当時の日本はすでに配色濃厚で、航空戦力や艦隊戦力も枯渇。まともに戦っても勝てない中で「消耗戦」=時間と人的損耗を強いるゲリラ的な防衛が選ばれていた。

米軍は沖縄本島上陸作戦の前に補給基地として慶良間諸島の制圧を開始しました。4月1日、米軍は無傷で沖縄本島に上陸します。当時の沖縄県民の数よりも上陸した米軍の数が多く、県民の女、子ども、老人は捕虜となりました。

沖縄は、地獄の戦場に巻き込まれることになり、地上戦が三ヶ月以上も続きました。負けは決まっていましたが、日本の本土戦を優位にするために沖縄で時間を稼ぐ必要があったらかです。県民を総動員し本土決戦に備えた戦いであり、時間稼ぎの出血持久作戦は、牛島満司令官によるものでありました。

第32軍司令官・牛島満中将の指導(大号令)

牛島満(うしじまみつる)沖縄における日本陸軍第32軍の司令官。

大号令とは、正式な文書や作戦名というよりは、牛島が発した最後の総攻撃命令や、軍の指導姿勢を象徴する言葉として使われています。1945年6月、配色濃厚となる中で「最後の突撃」を命じるなど、部隊に玉砕的な戦い指示。牛島自身も参謀長・長勇と共に自決している(6月23日)最後まで「降伏はあり得ない」として軍の名誉を重視しました。

沖縄県民が巻き込まれた実態

犠牲の規模

沖縄県民の死者は約94000人以上(全住民の四分の一ともいわれます)軍人よりも一般人の戦死者がはるかに上回りました。

日本軍は住民を防衛に動員し壕の掘削、物資運搬、看護などを強制しました。また壕に逃げ込んだ民間人が日本軍に追い出されたり、米軍の攻撃対象となったりしました。食糧難や病気、自決の強要などで大量の犠牲も出ました。食料を奪い合い、「捕虜になるくらいなら死を選びなさい。」と教えられ、人が人でなくなりました。

集団自決

日本軍が民間人に自決を促した(命じた)ケースが複数あり、「捕まるくらいなら死ね」「アメリカ兵に捕まれば女性は辱めを受ける」などと教え込まれていました。住民が手榴弾や刃物で家族と共に命を絶つ悲劇が各地で起こりました。

平和の反対は無関心、戦争の反対も無関心

戦後米軍の支配下であった沖縄県民は、早く日本人になろうと方言を禁止しました。復帰後は基地のない沖縄を目指してましたが、沖縄を拠点に日本を攻めるために作った15ヶ所もの飛行場は現在も複数残っています。

平和教育で心掛けること

私たちが伝えていくために、地域のことを調べることから始めましょう。地域史を活用し、今いる場所がどのように変わっていったのか。6月を平和月間としてイベント化せず、散歩などを利用し実際に見る事。教師自身が意識を持つ事。その上で子ども達に伝わるように噛み砕いてわかりやすい言葉で伝える事が必要です。感性的な認識、直感的な判断をするのではなく「先生はこう思うよ」など、中立的な立場で伝える事を心がけましょう。

沖縄県平和資料館のホームページに学習動画も沢山あります。ぜひご活用ください。「みんな平和のドアの前には立っています。その扉を開けるか開けないかは関心の違いにあります。」

無関心ではダメですよ。

平和の反対は無関心。戦争の反対も無関心。今ある平和は当たり前ではない。平和にいると気がつかない。今一度、戦後復帰80年を自分なりに見つめ直してみてはどうでしょうか。

命があればなんくるないさ〜☆

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